History

The lost Virgin demo

 1975年、御殿場の野外コンサートから2ヵ月ほど過ぎた頃、神奈川大学で行われた「オールナイトレインボーショー」の直後に、長田・正田が脱退。ベーシストには、だててんりゅうや頭脳警察で活動してきたヒロシが加入する。さらにドラマーは、OZのスタッフでもあったサミーこと三巻敏朗が務めることになった。

ヒロシ(楢崎裕史):エターナル・ウーム・デリラムとは別に、僕の曲をセッションしようっていう話になってね。最初のうちは、別のギタリストとやったりもしたんだけど、その人とはどうも合わない。そこで、じゃあ水谷君を呼ぼうかってオシメが言うんで、その時には僕はまだ彼の音楽をあまり聴いたことなかったけど、すごくカッコいいって噂は聞いてたから、賛成した。それで実際にセッションしてるうちに、水谷君が「俺の曲もやってみよう」って言って、エフェクターに繋いでAマイナーでガーッと鳴らしたんだ。そしたら、僕の中から自然に、ドダダダ、ダッダダ…って、あの”氷の炎”のベースが自然に出てきてね。水谷君も、これはいける、という感じになって、すぐそれに合わせて歌い出した。それでなんか、一緒にやることになったんだ。その時にはまだ長田君がいたし、自分がラリーズに入るとは考えもしなかったけど、しばらくして長田君もいなくなり、水谷君が僕とやりたくなってしまったんだな。

 1976年1月、新たなリズム隊を迎えたラリーズは、音楽評論家・間章氏のプロデュースによる「フリーコンサート」に参加する。

ハリマオー:間章さんは、水谷さんと出会った当初からラリーズの音楽出版を目論んでいたようでした。ラリーズを深く理解している方で、よく「Jazzは阿部薫、Rockはラリーズ」という言葉を口にしてましたね。76年には、間氏の半夏舎主催による前衛アーティストばかり集めたイベントに、ラリーズも出演しています。場所は新宿の安田生命ホールで、私も同行してラリーズの演奏中スモークマシーンを焚きました。
 その頃、間氏の段取りで某レコード会社のスタジオで録音を試みたこともありました。出版に向けてのデモテープ録音が目的だったと思います。当時はまだスタジオといっても、モニター環境など酷いもので、メンバーはヘッドホンをつけさせられての演奏になりました。水谷さんはどうもそれが気に入らなかったようで(きっとヘッドホンなどつけていたら、演奏にのれなかったのでしょう)途中でヘッドホンをかなぐり捨て、そのまま録音は中断、お開きとなりました。その件以来、間氏は、当時の日本の音楽状況からして、ラリーズの作品を国内のレコード会社から発表するのは困難ということを察したのだと思います。スタジオ環境や販売の点も含め、可能性は厳しいものでした。

手塚実:間章さんとは、数年ぐらいしか付き合えなかったけど、重要人物の一人だったね。渋谷の喫茶店らんぶるの、半地下の奥の席が彼の仕事場みたいになっていたな。屋根裏で水谷君がシンバルスタンドにギターぶつけて、ネックが折れた時も見に来てたと思う。独特のキャラクターで、水谷君とはフランス文学的な美意識も似ていて話が合うようだったし、よくつるんでいた。76年に、彼のセッティングで、ラリーズはちゃんとしたプロのスタジオでレコーディングしたこともある。2日くらいかけて、デモテープ制作っていうニュアンスかな。間さんが連れてきたジャズ系のサックス奏者も吹いてたし、水谷君も”夜、暗殺者の夜”で、ベースを被せて弾いたりしていたよ。その後、間さんはイギリスのヴァージン・レコードにラリーズを売り込もうとしたんだけど、残念ながらポシャってしまった。

ハリマオー:間氏は、ヴァージンと何らかの繋がりがあるようでした。当初は、レーベルの本拠地UKでの録音も一案として出ましたが、交渉や調整に時間がかかり過ぎることから、日本で録音した原盤をレーベルに持ち込み買い取らせるというアプローチで進めるという話になりました。レコーディングの段取りはプロデューサーである間氏が決めて、高田馬場のBIG BOXにあったスタジオが現場でした。水谷さん以外のメンバーは中村さん、ヒロシ、サミーです。本当はLPレコード両面に相当する曲数を録り終える予定でしたが、残念ながら中途半端なところで時間切れとなりました。原盤完成まで至らなかった音源はデモテープということになり、ダビングした音源を間さん自身が携えて渡英、直接ヴァージンに持ち込んだそうです。役員会議の場までは届いて、出版に関する交渉には辿り着いたらしいですが、結果リリースは実現しませんでした。
 間氏からは、以下のような話を聞かされたことを憶えています。
「リリースを持ちかけたのと同時期、ヴァージンはEMIから追放されたセックス・ピストルズと契約しようとしていた。ピストルズから提示された法外な契約金を工面するため、売れ筋の数バンドだけを残し、50近い他のアーティスト契約を悉く解除し始めたタイミングだった……」
 実際にはどうだったのか、もはや確かめる術はありませんが、後で聞いたところによると、確かにヴァージンは、76年頃に経営難に陥っていたようです。ともかく計画はそこで頓挫し、ラリーズとしては稀なスタジオ音源は、そのままお蔵入りとなりました。

 この高田馬場でのレコーディングの翌々年、78年12月に間章氏は死去している。

    

To be continued……