History

福生

 73年に閉店して以降も、OZはロック・コンサートの企画制作集団として継続する。同年11月には埼玉大学でオールナイト・イベントを開催し、裸のラリーズも出演した。この頃、コンサートが夜を徹して行なわれることは、まだ一般的ではなかったという。当日は、深夜に学生の一団が暴徒と化してなだれ込み、主催者と乱闘騒ぎになる一幕もあったものの、全ての演目は完遂され、イベントは成功を収めた。

手塚実:OZが終わってすぐにやった、埼玉大学のイベントは凄かったね。昼間からずーっと夜通し朝までっていうのは、多分この時が初めてじゃないかな。超満員で、まあ途中には色々あったけど(笑)、盛り上がったよ。

Photo by Minoru Tezuka

  

 ラリーズのマネージメントを担うようになった手塚は、いっそうライブのブッキングに力を入れ、元OZ、および周辺スタッフの多くがバンドに関わり続けた。同じ頃、ラリーズとOZの面々は福生に家を借り、そこを拠点として活動していくことになる。

手塚:マネージャーになったのは成り行きだけど、もちろん、このバンドは絶対に凄いことになると信じてた。幻想だったのかもしれない。でも今、ラリーズはワールドワイドで評価されてるでしょ。やっぱり俺の目は間違ってなかった。それが嬉しいんだ。
まだOZがあった時から、水谷君が練習する場所を探していたんで、福生で物件を見つけてきて、それがラリーズ・ハウスになった。しょっちゅう練習してるわけじゃなくて、そこで遊んでたんだ。面白かったよ。16ミリの映写機を中村君が持っていたから、赤坂のドイツ文化会館まで『カリガリ博士』や『死滅の谷』といったドイツ表現派、あとコクトーの映画とかを借りに行って、それを皆で見ながらね。
それから、水谷君が珍しいレコードをたくさん、大音量でかけてたな。ドイツ系のプログレ、例えばCanとかAmon Düül。あと、Pearls Before Swineの、ヒエロニムス・ボスの絵がジャケットのやつとかも。

ハリマオー:閉店からほどなくしてOZの主要メンバーは、中央線沿線からさらに郊外の街=福生で、米軍横田基地周辺に点在するハウスをシェアして共同生活を始めた。同じ時期に、ラリーズもバンドでハウスを1軒借りている。メンバーは都内にもそれぞれプライベートな住居があったようで、ハウスはいわば秘密のアジトみたいなものだったのかもしれない。関係者の家も含めて全部で3軒あったハウスは、メインストリートと呼んでいた一本道で繋がっていて、煙草とレコードを持って互いのハウスを行き来しながら、よく一緒に遊んでいた。パーティはたいてい真夜中で、部屋の中も真っ暗だし、いつも夜通しエンドレスで、フルボリュームのレコードがかかっているような状況。これには理由があって、深夜でもやまない軍用機のエンジン音をかき消して音楽を楽しもうとすれば、それなりの大音量が常に必要だったから。
ロック・バンドにとって最大の利点も、騒音の苦情がほぼないという点に尽きる。近隣に一般家庭がほとんどなく、互いの住居ともそれなりに間が空いていたのに加え、基地から響く昼夜を問わない騒音が大抵の音をかき消してしまった。戦闘機の発着はガタピシと窓ガラスを震わせ、ギター・アンプの音すら凌駕するほどだった。ある部屋には、練習スタジオ並みにアンプが並べてあり、日常的にいつでも音を出せるので、ミュージシャンではない私も一緒に音を出したりした。いくら苦情がこない地域とはいえ、それでもラリーズは一度、怒鳴り込まれたことがあるそうだ。相手は最初のうちこそドアをノックしていたけど、あまりの爆音で誰も気が付かなかったため、ついに扉を蹴り破って入ってきた…と言われていたような(笑)。


 OZは、74年4月に福生市民会館で毎週連続4公演のコンサート「OZ YAA HOUSE」を実施。こうしたOZ主催のイベント以外にも、73年から4回にわたって石川県で開催された夕焼け祭り(第3回までのブッキングは久保田麻琴)や、75年4月に御殿場の日本山妙法寺で行なわれた「ミルキーウェイ・キャラバン75・花まつりコンサート」など、様々なイベントにラリーズは登場している。

ハリマオー:多分「OZ YAA HOUSE」の後くらいに、日本の楽器メーカーGuyatoneからギター・アンプが届けられた。真空管200wのWキャビで、白黒の立派な新品が2セット。試験提供で使って下さい…的な話だったと思う。手塚氏は当時ロック・イベンターとして、ELKやGuyatoneなど複数の楽器メーカーと親交を持っていて、私も彼について高井戸にあった本社まで機材運びで行ったことがあった。Guyatoneのアンプは後に買い取られ、最終的にラリーズのデフォルト機材となり、Marshallが登場するまでの数年間、メインのアンプとして活躍する。