裸のラリーズは1967年、同志社大学にて、水谷孝(Vo/G)、中村武志(G, B)、若林盛亮(B)、加藤隆史(Dr)の4名によって結成された。
中村武志:結成時のことねぇ…、まず水谷氏とは大学の軽音同好会で出会った。とにかく彼は当時まだ少なかった長髪でカッコよく、独特の雰囲気を持っていて一目で魅了された。たぶん僕から「一緒にバンドをやらないか」って声をかけたと思う。で、ベースとドラムを探さなきゃ、誰かカッコいいやつはいないか、ということになって一緒にキャンパスを探し、若林さんを見つけた。話をしてみると、彼も僕らと同じような音楽を聴いていて、ただ、楽器は何もしたことがない。でもベースやれ、と。つまり最初から楽器のテク以上に、感性や理念が大事だったってこと。それから、僕の高校時代の知り合いでジャズ・ドラムを叩いてるのがいるから、あいつにやらせようっていう話になって、それが加藤隆史だった。…と云うようなバンド結成時にはよくある話でしかない。
しかしバンド名も含めて、「日本語でオリジナルをやる」っていうのは、最初から絶対にあった。当時、グループサウンズとかは日本語だったけれども、本当にロックを日本語でやるバンドはいなかったから。水谷さんは詩人で、すでに歌詞を書いていたし、それをロックでやりたかった。
ライブは、最初から大音量でしたよ。水谷さんは、ジャーンと音を出したとき、それ一発で自分は変わったと言っていた。その時の音の大きさ、それは自分の日常意識がぶっ飛ぶような、初めての体験だった。
69年の春から秋にかけて、多田孝司(B)、松本務(Dr)とメンバー交代しながら活動したラリーズだが、やがてバンドは水谷ひとりだけになる。その時期、やはり同志社の軽音同好会にいた久保田麻琴とともに、大学内でレコーディングを行なった。
久保田麻琴:私も同志社の軽音同好会にいて、ボサノバとかやっていた。水谷くんはすぐ辞めてしまったけど、しばらくして、69年の秋くらいかな? 私が大学2年生の時に偶然キャンパスで出会ったら、「今度こういうのやるから」ってチラシをくれてね。横顔の写真のチラシだったから、京都教育文化センターの「免罪符としてのリサイタルNo.2」っていうやつだと思う。ちゃんとチケットがあって、400人くらいのホールだった。行ってみたら、とにかく音がものすごいデカくて、あんなデカい音を聴いたのは生まれて初めての経験だった。
その後また会った時、「アコースティックでやりたいから手伝ってくれ」って言われてね。それで、確か伏見の方のアパートに行って、一緒にギターを弾いて曲を作り始めたんです。2人でなんとなくセッションして、あと、牧野くんていう、ドラマーじゃないんだけど、なんか適当なちっちゃいタイコ叩くメンバーもいた。3人で、2回くらいコンサートもやっている。『Mizutani / Les Rallizes Dénudés』に入ってる「The Last One」が、この時のライブだね。確か南正人さんと対バンだったんじゃないかな。
そして、後に『Mizutani / Les Rallizes Dénudés』に収録された音源を、同志社の学館で録音したんだ。年明けて70年になってから、1月か2月、寒い時期でしたね。まだ20歳くらいだったけど、私の第1回プロデュース作品みたいなものだった。水谷くんが私が録音に明るいことを知っていて、音楽的な相性もあり、私を起用したんだと思う。
1970年、水谷は後に村八分を結成するメンバーたちと数回ライブを行なう。
ほどなくして、南正人の協力により東京へ拠点を移した水谷は、長田幹生(B)、正田俊一郎(Dr)と新たな編成のラリーズを始動させた。
翌71年には、渋谷BYGでの3日間の公演、山梨県精進湖で行なわれたイベント、慶應大学の三田祭などに出演。前年に渡米していた久保田も帰国後、再びメンバーに加わっている。その後、一足先に東京へ出てきていた中村が復帰してからも、久保田は自身のバンドである夕焼け楽団と並行させながら、ギタリスト/ベーシストとして、73年までラリーズの活動に関わり続けた。
そして72年、バンドは、カメラマンの望月彰によって、吉祥寺にライブハウス「OZ」をオープンしたばかりの手塚実を紹介される。