History

OZ

 1972年、吉祥寺にオープンしたライブハウス「OZ」は、1年3ヵ月という短い期間しか存在しなかったものの、ミュージシャンのみならず、個性的な人々が集う特別な場所となった。裸のラリーズは、そこで単なる出演バンド以上の深い関係性を、OZの人々と築き上げていく。

望月彰(映像作家):初めて裸のラリーズを見たのは、1970年の夏に富士急ハイランドで開催された「ロック・イン・ハイランド」でだった。まだ自分は学生だったけど、当日のステージも撮影している。その時のラリーズは、チャー坊、山口冨士夫、青木真一など、後に村八分というバンドになる面々に、水谷さんが加わった編成。凄くカッコよかったんで、ライブが終わってから、思わず水谷さんに声をかけていた。そうして知り合いになり、京都で会ったりもしたんだけど、そのうち水谷さんが東京へ出てきて、新編成のラリーズで活動を始めた。
その頃、僕は大泉学園に住んでいたから、吉祥寺からバスで帰ることも多くてね。ある日、吉祥寺で「OZ」っていう名前の店を見つけた。ちょっと、ヘルマン・ヘッセの『荒野のおおかみ』に出てくる魔法の劇場みたいな雰囲気で、中に入ると、サンフランシスコのフィルモアに貼られていたサイケデリック・アートなポスターがたくさん貼ってあって……とにかくカッコよかったんですよ、そのポスターが。そして、水谷さんが、ラリーズで演奏する場所を探していると言ってたのを思い出して、そこへ連れていったんだ。

手塚実(OZ店長・のちにラリーズのマネージャー):72年の6月にOZを開店して、ラリーズと出会ったのは秋。9月か10月だった。初めて対面した時のことは、よく覚えている。望月君が「彼らがラリーズです。ここで演奏できませんか」って言ってきて。まだ音も聴かせてもらってないのに、なぜかすぐ「いいよ」って答えて、パッと決めてしまった。
初めて見たラリーズのライブには、それはもうビックリした。いちばんビックリしたのは歌詞だね。まず歌詞がグッと入ってきた。「記憶は遠い」とか「造花の原野」、ああいう歌詞の魅力は、当時の他の日本のバンドとは全然違ってたんだ。文学性というか、インテリジェンスというか……まさに詩人だった。そしてメッセージ性。メッセージと言っても、それまでのフォークなんかとは違う。当時もう学生運動はしょぼくれていて、マスコミではシラケ世代とか言われてた頃だった。皆おとなしくなっちゃってさ。そんなところに、ラリーズの音を聴いたから、おお!って感じだった。すぐに僕は、ラリーズのことを凄く気に入った。
最初の頃に使っていたエフェクターは、ファズとワウくらいで、確か僕が「もっと音を広げるために、エコーチェンバー使おうよ」って言ったと思う。その頃、エコーチェンバーなんて持ってる人なんて殆どいなかったけど、OZに出てたタジ・マハール旅行団の小杉さんが持っていたから、ラリーズがライブやる日に、それを学芸大まで借りに行った。エコーを使うようになって、だんだん音がコズミックに広がっていったんだ。

ハリマオー(OZスタッフ・のちにラリーズのスタッフ):当時のラリーズは水谷孝氏に、サイド・ギター中村武志君、ベース長田幹生君、ドラムは正田俊一郎君の編成だった時代。中村君は曲によってはヴァイオリンも弾いていた。水谷さんのギターはセミアコか、白いピックガードでアーム付き黒のフェンダーテレキャスター。エフェクターは、ファズとクライベイビーがメイン。それから、ローランドのテープエコーが2台あって、1台はギター、1台はヴォーカルにかけていたと思う。中村君はBig Muffとワウワウを使っていたのではないかな。
OZのスタッフはすぐラリーズが大好きになった。とにかくカッコいいバンドだった。当時、日本のロックと言ったら、まだまだ洋楽の猿真似を競い合うのが精一杯といった態の時代。そんな中でもOZには個性的なスタイルを持ったアーティストばかりが吸い寄せられるように集まってきて、芸能界とは全く無縁の場所だった。中でもラリーズは別格だった。他とはまるで異なる唯一無二の存在と言える。確固たるオリジナリティーで武装した、見たこともないロックだった。
メンバーの風貌からして皆独特の雰囲気を持っていた。音は鋭利で超硬質。詩は日本語で歌われた。暗黒を切り裂いてゆく桁外れの轟音、シンプルなコードの繰り返し、殺人的なフィードバック。だが、その音から発せられる呪術的な心地よさに私達は魅了されてゆく。音楽としての麻薬。知らずに入った客の中には、演奏開始数分で愕然としたまま外に飛び出していく者もいた。けれども粗方は演奏終了まで、ただただじっと聴き入っていたものだ。

そして1973年3月4日、裸のラリーズは、OZの企画によって、武蔵野公会堂でのコンサートを実現させる。